神奈川県にお住いの37歳男性(クラウドワーカー・就職支援施設通所:クラウドワーカー・就職支援施設通所)が2023年7月頃に読んだ『本物の思考力を磨くための音楽学』のレビューをご紹介します。
本書の概要や内容をわかりやすく要約してまとめておりますので、書籍を読んで学んだことや感想、評価や口コミが気になっている方は参考にしてください。
目次
『本物の思考力を磨くための音楽学』を購入したきっかけ
通販サイトで面白い本を探していた所、この本に出会いました。
実際の読者の評価も高かったため、面白そうだな、と思ったのが購入を考えたきっかけであり、音楽はなぜ感動するのか、その感動の正体は何なのか、といった所を、精神科医であり音楽家でもある著者の視点から見たら面白そうだな、と思ったのが購入する事に決めたきっかけです。
音楽を精神科医が分析したらどうなるのか、医学的な見地から音楽を分析したらどのような見方が可能になるのか、そのような部分が面白そうだったので、読んでみる事にしました。
『本物の思考力を磨くための音楽学』の概要
近年の私達は、情報の洪水にあくせくしながら生きており、昔よりも物質的な不自由さが減ったけれど、生きる意味が見出しにくくなった時代に生きている、と著者は言います。
一昔前までは、欲しいものを手に入れたい、世界的な経済大国になろう、といったハングリー精神が原動力となって人々を動かしていたわけですが、それがある程度満たされた今、私達は何を求めていけば良いのでしょうか。
著者は、それを愛だと表現しています。
そして、文化の中にはその愛が宿りやすいと説明、生きる意味が見つかりにくい今、音楽の価値を再定義するべきだ、と主張しています。
人は、何かに愛を見い出した時、自分から動こうとして主体性を発揮します。
それが、趣味や仕事、子育て、家族のだんらんなど多岐にわたるものであってもいいのですが、愛が人に宿る時、そこに生きる意味が生まれます。
そして、優れた音楽には必ず愛が込められている、と著者は言います。
そのような本物の音楽に触れた時、人はそこに美を見い出し、真理を発見し、生きる意味を見い出す事ができるはずだ、と主張します。
著者はこのような事を述べ、現代の行き詰った閉塞感に対する処方箋を提示、生きる目的を愛で表現し、音楽に含まれる愛について、我々に示してくれます。
基本情報
- 著:泉谷 閑示
- ISBN:9784636930931
- 出版社:ヤマハミュージックメディア
- 判型:4-6
- ページ数:264ページ
- 定価:1600円(本体)
- 発行年月日:2019年06月
- 発売日:2019年06月22日
- 国際分類コード【Thema(シーマ)】 1:AV
『本物の思考力を磨くための音楽学』のYouTube(ユーチューブ)
『本物の思考力を磨くための音楽学』についてYouTube(ユーチューブ)でわかりやすく解説してくれている動画がないか調べてみました。
「Healing Sound JAPAN」チャンネルが細かく解説してくれているので、本を読む時間がない方はこちらのYouTube(ユーチューブ)動画をおすすめします。
『本物の思考力を磨くための音楽学』から学んだことの要約とまとめ
『本物の思考力を磨くための音楽学』から私が学んだポイントは大きく3つの内容です。
私が学んだこと
- 頭で聴かない体で聴く音楽
- ピアノを演奏する事で自分が分かる
- 音楽を聴いて世界と同化する
まず、仏教的な無我の境地が、音楽の世界にもあるという事を知り、驚きました。
これを著者は、自分本位な物の見方から他人本位な物の見方、そして自分という一人称を超越した超越的ゼロ人称へと移り変わって行く人の心として表し、その到達点を無我の境地としました。
柳生宗矩は剣を自在に振れるようになるまで50年かかった、ピカソは子供のような絵を描けるようになるまで70年かかった、と述べていますが、これらはどれも無を体現する過程をそれぞれの言葉で表しているものだと思います。
著者は、この過程を未熟なゼロ人称から出発し、一人称を獲得した後、超越的ゼロ人称に昇華されていくものだと説明。
夏目漱石も、脱亜入欧の過程で、行き過ぎた自己本位主義は自我肥大に陥りやすく、それから他人本位に移ると、神経症的な部分が出てくると述べ、そして、その後「則天去私」という超越的ゼロ人称である無我の境地について述べ、自分へのこだわりが去って大いなるものに身をゆだねる境地が良いのではないか、と説いています。
そして、それを音楽で表したのが、チェコのモラヴィッツ氏であると著者は言います。
彼の演奏を聴いていると、彼が次第に無を体現するトランス状態に入っていき、透明感のある自我のない音楽を奏でていく様子を体験できるそうです。
このように、仏教と音楽の関りまで述べているのがこの本の面白い所であり、著者の凄さなのではないか、と思いました。
頭で聴かない体で聴く音楽
著者は、この本の中で、AI的知性というものに警句を鳴らしています。
「頭」とはまさにAI的知性なのですが、尊重すべき人間的知性とは「心=身体」によって感知される感覚や感情などと密接に関わりながら「頭」が働く状態である、と説明しています。
「頭」単独では、計算上はこうなる、理論ではこうなる、こういう風に決まっている、といった表層的な側面を理解する事はできる、と著者は言います。
しかし、それだけでは、そこにある「心=身体」を理解する事はできない、と言います。
永六輔さんの「職人」という本には、職人さんは「おれは何かする時自分の身体に出来そうかい?と聞くよ。
すると、身体がそれに応えてくれるんだ」というエピソードがありますが、これも「心=身体」が意識されている部分なのではないか、と思います。
そして、音楽は、このように超絶技巧や膨大な量の楽譜を暗譜する、音楽的知識だけを持つ、といった「頭」の機能では真に優れた演奏をする事はできず、「心=身体」から発せられる演奏こそ人を感動させるものだ、という著者の音楽論が展開されます。
これなどは、的を得ている見解であり、なるほどな、と思いました。
ピアノを演奏する事で自分が分かる
著者は、音楽の経験そのものは、腹の足しになったりするような意義を一切持っていないのであり、そこがかえって、純粋に意味のためだけに存在する音楽の面白さだ、と言います。
しかし、私などは、そこに効果を求めてしまう事があり、例えば、リラックス効果や気分転換といった物を求めてしまいますし、気が紛れるので、空腹感を忘れられるといった効果もあります。
おそらく、そういった音楽に意味を求める聴き方は、邪道なのでしょう。
ここに、何にでも効率や効果を求める私の悪い部分が出ているような気がしました。
先ほどの「心=身体」を大切にする音楽観からすると、音楽とは、内なる促しによって演奏されるものである、という事ができそうです。
エドウィン・フィッシャー氏は、弟子たちに向かって「私の意図する所は、あなた方をピアノから離れてあなた方の自己自身へと案内する事です」と述べていますが、これも内なる促しによる演奏を是としている例ではないか、と思いました。
著者は、機械的で筋トレのような練習によって生み出される演奏からは、およそ何の感興もない死んだ音楽が生じてくる、とも述べています。
個人的には、練習が完璧であればあるほど自信が生まれ、演奏に自分を乗せやすくなるのではないか、と思いました。
しかし、それと同時に、これは私の認識を超える専門家レベルの話で難しいな、と思いました。
音楽を聴いて世界と同化する
著者の言うように、「頭」に頼るあまり、「心=身体」の作用を忘れ、本来の精神作用を歪めてしまったのが現代を生きる我々であるならば、「心=身体」の存在を思い出す事によって、何か新たな進展があるのではないか、生きる意味が見つからない生活の代わりに豊かな生活を得る事ができるのではないか、と思いました。
もちろん、身体の言う事ばかり聞いていたら緊張する場面を避けてばかりになってしまい何も出来なくなってしまうので、「心=身体」との上手い付き合い方を見つけていく事が、大切なのではないか、と思いました。
著者によると、はじめに言葉あり、とは、ヨハネ福音書の冒頭にある有名な一文ですが、これに続いて、言葉は神なりき、よろづのものこれに由りて成り、成りたるものにひとつとしてこれによらで成りたるはなし、と述べられていると言います。
すると、私達が考えようとしている音楽というものも、言葉から生み出されたと云う事になるのでしょうか、と著者は言います。
つまり、音楽は日常を構成する要素であり、言葉であり、日常空間にあふれているもの、という事ができます。
そのように考えた時、音楽を聴くという事は、音楽と同化するという事であり、世界と同化する、「心=身体」と同化するという事なのかもしれない、と思いました。
『本物の思考力を磨くための音楽学』の感想
音楽には、実用的・実利的な要素を超えて、猶人間が探求せずにはおれないものが含まれている、と著者は言います。
それが意味というものであり、そもそも人間は、そのような意味の感得できない世界では、生きていく事ができない生き物だ、と言います。
そして、この人間に無くてはならない意味というものを、人間はただ自然界から受け取るだけでは飽き足らずに、自らこれを生み出したいと欲した。
これが、神話や音楽の由来なのだと言えるでしょう。
(著者)つまり、動物達が行っている活動に自分達独自の意味を付けるようになったのが、人間なのでしょうか。
食べる時に、美味しく食べるために料理する、という意味を付け加える、建築物に芸術が宿るように細工をしつらえる、余暇の時間を楽しいものにするために音楽を考案する。
全て動物たちの行動に意味(魅力)が付加されているというのが、人間の行う活動の特徴だと思います。
そのようにして、音楽も発展を遂げてきた。
著者は、そのような事を一冊の本にして分析してくれています。
それがこの本の醍醐味であり、面白さなのではないか、と思いました。
『本物の思考力を磨くための音楽学』の評価や口コミ
他の方が『本物の思考力を磨くための音楽学』を読んでどう思われているのか、評価や口コミを調べてみました。
音楽と学習について調べていたらこんな本が出てきたので、早速Kindle版を購入しました
「本物の思考力を磨く」ための音楽学ですってよ!
読みながらアウトプットしていきたいと思います pic.twitter.com/CMZLLwjU4i
— ゆうせい (@yusei_kakashi) July 12, 2022
何事につけても効率化を求められ、情報の洪水の中であくせくとした日々を送らざるをえない私たちは、昔より物質的な不自由さが減ったとはいえ、むしろ「生きる意味」が感じられにくい精神的に困難な時代に生きています。
本物の思考力を磨くための音楽学
最初からグイグイ引き込んで来るやんけ。 pic.twitter.com/6gQX1kvcMg
— ともぞう🐘 (@tomozou1804) August 10, 2019
週1冊は本を読み終えるって目標立ててやってるんだけど、最近面白かったのは『本物の思考力を磨くための音楽学』って本!
どの章も興味深かったけど、特に『未熟な0
人称→1人称→超越的0人称』の話は自分がぼんやり思っていたことが言語化されてより考えさせられました pic.twitter.com/Xg8I4fuR75— 山口紺碧🌞ピアノ弾きアーニャ (@AnyaP_Official) January 17, 2023
ひとことで言うなら、音楽の本質を理解して、本物の感動を味わおうという話。現代の音楽家に欠けている問題点なども書かれています。音楽の専門的な知識のある人が、理解が出来るレベルだと思いますし、当の音楽家は充分わかっていることだと思います。クラシック音楽愛好家において、有名、巨匠、名門などブランド趣味、教養ステータスでクラシック音楽を楽しんでいる人には読んでほしいですね。音楽の本質を理解するには、所詮は音楽の素人(理論、奏法を知らない一般的な愛好家)には難しいという読後感が残りました。そして、こういう本物志向の考え方は、音楽の専門的な教養のある人、コアな愛好家は支持されるが、素人ファンや初心者は去ってしまうので、結果的にはクラシック人口が減るだろうなと感じる本です。音楽を娯楽としてではなく、芸術として味わいたいと思う人のための良本です。続きを読む
Amazonの口コミ
本書を読んで、思考力を磨く...と言うよりは、生きる意味のヒントを与えてくれるのが音楽であるということを実感しました。正直、何を言っているか分からない部分が随所に見られます。ただ、それは私の理解力の乏しさもあるでしょうし、引用している外国語の日本語訳のレベルもあるでしょうけど、理路整然と順序立てて説明していることは感じられます。音楽の分野でありながら、哲学書を読んでいるような感覚に陥りました。そして、読書を通して心に強く響くものを感じ、これが感動であるということを実感しました。タイトルは『思考力を磨く』と述べていますが、本書では生きる意味を気付かせることがキーワードになっていると思います。
Amazonの口コミ
面白いです。もっと若い時に出会っておきたかった本でした。内容、私には高度でしたが、音楽の大切なことが全て書いてありました。私にとっては、何度も読むに値する本です。
Amazonの口コミ
著者がどうして音楽を好むのか、という事が凄く良くわかる。幅広い知識を元にどうして音楽が人を感動させるのか、ということを短いレビュー的な文章で繰り返し追及しているのだが、非常に難解に感じます。しかし、この姿勢は音楽を愛するものとしては共感できる。そう思ったとき、ここに書かれているのは音楽が人を感動させる理由を追求しているのではなく、音楽が自分を感動させる理由を求めているのだと思いました。その考えが閃いた瞬間、この難解さは、自分が感動する理由を、無理矢理一般化しようとしたために生まれてしまった弊害だったのではないかと思いいたりました。自分はクラッシックなどは聴きませんが、長年ロックを愛してきて、どうしてこのアーティストの音楽が自分を感動させ引き込むのかと常に考えてきました。おそらく、根底にある衝動は著者と同じで、もっとその音楽を理解したいという事だったのだと思います。なので、自分は改めてこの本を著者がその音楽を愛する、またそれに感動させる理由を追求した文章として受け止め読み直しました。するとところどころですが、非常に分かりやすい部分も表われ、面白く感じる事が多くなりました。本一冊を使って、自分が音楽を愛する理由を追求できるなんて、素晴らしく羨ましい事だなと思います。ヤマハの出版物は相変わらず、楽曲のスコアやレッスン、トレーニングだけでなく、こういった哲学的な部分まで包括的に取り入れ音楽というものを表現しようとする姿勢が垣間見えて、嬉しくなります。一般的な本ではありませんが、理解できる人にはわかるこのような本も出していける状況が今後も続くと良いですね。続きを読む
Amazonの口コミ
音楽から何を感じ、どう解釈するかは、かなり難しい命題だ。筆者はこれに果敢にチャレンジしている。筆者の考え方を追うのも難しいのだ。理想は高いのだが、部外者には分かりにくい。筆者精神科医であるが、同時にパリの音楽院にも要ったマルチ人間だ。多分分かりにくいのは日本語とフランス語での体験の折り合いが、一般人には難しいのかも知れない。音楽を演奏することよりも、注目を浴びたいがために内容に合わないルバート(リズムの速度を調整)することも、メトロノームの様に正確だが単調なリズムに乗せて演奏される曲は、音楽を破壊する行為で、それらの演奏家のお陰でクラシック嫌いが起きると(ここでは訳も分からず拍手する聴衆のために音楽の分かる人が寄りつかなくなること)、なかなか手厳しいことが最初から書いてある。しかし、日本にいては分かりにくい音楽の演奏速度についての話が書いてある。しっとりとした日本で演奏するのと、石造りの建物の多い欧州では、演奏に最適な速度は違うと。響きすぎる嫌いのある石造りの部屋でこそ、欧州の作曲家の設定した速度、指示に納得が行くのだそう。フルトヴェングラーもホールの響きを聞いてからでないと速度は決められないと言ったのはそういうことだ。楽譜に♩=42とあっても、会場によって調整する必要があるということだ。また作曲家毎、時代ごとの様式、スタイルというものがあって、それを理解しない演奏には意味がないとも。実際に高名な演奏家であっても、そんなことをする輩がいるらしい。演奏家になろうとする場合、一般的には指導者と生徒という関係になるが、真に偉大な演奏家になるためには、その様な消極的な精神にする主従関係もあってはならない、あるいはなるべく早く主従関係から抜け出さないといけないという主張をしている。過去の例を引き、その様な教師がいたそうだ。初心者であっても、自分を持っている、主体を持っていることを求められるのだと。音楽に限らず、自分を主体化するのが大切だと言うことを、夏目漱石も言っているそうだ。他人にどう思われるかを気にしているのは他人本位、自分に正直に生きる自己本位になるべしだと。さらに自己本位となれれば、天に則り私を去ることまで行けると(解脱なのか?)。ピアノの音色を作る話も出て来る。誰でもピアノの音を出せるが、鍵盤の押し下げ方のテクニックや弱音ペダルの微妙な使い方で、詰まらない音から表情のある音までが出来ると。内田光子は弱音ペダルを常に踏んでいたそうだ。そのコントロールが精妙なので、あの美しい音楽を奏でているのだと。この本は、以下に作曲者の意図を汲んで、音符ではなく音楽を奏でるか。そこにはリズム、奏法、様式への知識、奏法などがからんでいる。また、弾く会場の性質、湿度屋温度などの環境を考えた柔軟な対応が必要となるということだ。音楽が音楽になるのかは、その辺で決まるということ。ただ、これは演奏家だけの問題ではなく、会場運営がうまく行っているか、聴衆の質が高いかという条件もある。この本には書いてなかったと思うが、奇跡の演奏が生まれることがある。同じ演奏家であっても、前の品は単に上手い演奏、しかし次の日に奇跡の様な大感動を起こす演奏が出来ることがある。よく演奏会場に足を運ぶ人でも一生に10回もないかも知れない。私は1度ある。演奏が終わってロビーに出ると、皆が興奮していて、素晴らしさを語る人、何十人もが携帯でどんなに素晴らしい円だったかを話していた。そんなこともあるけど、筆者が書いている様に、大きな努力、時間を掛けて磨いたセンスが必要だ。そしてその演奏がよければ、リアルタイムにフィードバックをかけられる観客が必要なのだと思う。読み通して、筆者の言いたいことの難文の1も理解できていないかも知れない。取り上げる例や、言葉の使い方が、浪ではないからである。だから、所詮演奏家ではなく、クラシックの理論や奏法に通じていない一般読者には、この様な議論に付いていくのは難しい。出来れば、演奏の例をYou Tubeか、ヤマハのサイトに置いて頂けると、実際に聴いて理解することができるのだが。音楽は演奏されないと分からないからだ。続きを読む
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みなさん本書を読んで学んだことが多いみたいですね!
おわりに
著者は、音楽を感動するものにする愛について、達見を述べています。
芸術とは、人間存在への飽くなき関心なしには、意味をなさないものです。
専門の技術をいくら磨いたとしても、この根本精神が欠如しているものを芸術と呼ぶ事はできませんし、聞く者に「生きる意味」を抱かせる事もできないでしょう。
人は、真理に共鳴した時に美を見い出すものです。
つまり、人が対象に愛を向けた時、そこに対象の本質が開示されてくる。
その喜びの感覚は、我々に美の経験として意識される。
よって、チェリビダッケ氏のように、真理に到達する目印として美をとらえる事も可能なのです。
(著者)これを読んで、私も物事をする時には、まずそこに愛を見つける事から始めようと思いました。
すると、そこに自然と美が宿る。
これは、注目に値する著者の達見だと思いました。
仕事でデータ入力をしなければいけない時は、いかに早く正確にできるか楽しみながらやる。
家に誰もおらず家族の分も料理しなければならない時は、何を作ろうか楽しみながら考え、本気で美味しいものづくりに挑戦する。
このような行動を取る時、そこには確かに愛が宿るのではないか、と思いますし、結果として美しいものの片鱗が宿るのではないか、と思いました。
次に読みたいと思っている本は『ファスト&スロー』です。
泉谷閑示氏のこの本を読んで、他者の存在に主導権を置いて、自分を疎かにする事は愚の骨頂であり、自分の内面に目を向けて精神の軸を作っていこうと思った事もあり、自分の意志決定の本である本書を読みたいと思いました。
普段、私はどのようにして意思決定しているのか、そこに「心=身体」の入る余地はあるのか、という部分について合わせて考えてながら、読んでみたいと思いました。