神奈川県にお住いの36歳男性(福祉作業所農作業員)が2022年5月頃に読んだ『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』のレビューをご紹介します。
本書の概要や内容をわかりやすく要約してまとめておりますので、書籍を読んで学んだことや感想、評価や口コミが気になっている方は参考にしてください。
目次
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』を購入したきっかけ
前々から仏教や禅には興味を持っていたので、題名からしてこの本も面白そうだ、と思い手に取りました。
禅の中でも坐禅について、どのような効果があるのか、むしろ坐禅は、仏教的な価値観からすれば効果を期待してはいけない行為なのか、そのあたりも面白そうでしたし、世代を超えて一定の評価を得てきた禅について学ぶには良い本なのではないか、と思い、購入しようと思いました。
実際の読者の評価も高く、きちんとした教育を受けたお坊さんの本ですので、その教えにも信ぴょう性があると思いましたし、座禅、悟りなど仏教の面白そうな部分について、なんらかの知識を得られるのではないか、と思い、読む事にしました。
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』の概要
仏教というと、座禅や瞑想、断食など、様々な修行法がある事で有名ですが、それらはどのような意味があるのか、本当に価値があるのか、シッダールタを例にして論じられている所などは勉強になります。
仏教の開祖であるシッダールタは、心から入る瞑想を行い、心の動きを制御する事ができました。
また、肉体的な苦行にも挑戦し、骸骨のようになるまで断食をし、身体を鞭打ち、茨のある所で転がる、水を飲まない等の苦行にも挑みます。
そして、自分なりの解答を得る事にも成功しています。その後、彼が菩提樹の樹の下に座って坐禅を始めると、穏やかな気持ちになる事ができた。これが最初の座禅だと言われています。
このような、瞑想、苦行、座禅といった様々な項目について、シッダールタの体験を軸にして、その本質を解説してくれているのが、この本の優れた部分であり、また、勉強になる部分だと思いました。
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』の基本情報
基本情報
- 出版社:中央公論新社
- 著者:藤田 一照,伊藤 比呂美
- 定価:本体860円+税
- 発行年月:2016年03月25日
- ページ数:276ページ
- ISBN:978-4-12-102365-0
- 言語:日本語
- 公式サイト:https://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/03/102365.html
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』の目次
目次
- 序章 そもそも禅ってなんですか?
- 第1章 私の坐禅は正しい坐禅?
- 第2章 正しく坐るのも一苦労?
- 第3章 坐禅の効用って?
- 第4章 日本の禅、海外のZEN
- 終章 今夜、坐禅をする前に
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』のYouTube(ユーチューブ)
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』についてYouTube(ユーチューブ)でわかりやすく解説してくれている動画がないか調べてみました。
残念ながら本書を紹介しているYouTubeチャンネルはなかったため、本ブログにて要点をまとめてお伝えできればと思います。
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』から学んだことの要約とまとめ
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』から私が学んだポイントは大きく3つの内容です。
私が学んだこと
- 一人も百人も同じであるという梵我一如の考え方
- 縁起の全体性の中に安らぎがある
- 自分を所有物以外で価値付けしてみる
まず、座禅をする時に、精神を集中させる方法として、息を数えるという方法が紹介されています。
数息観といって、ひとつ、ふたつと呼吸を数えていき、禅定力を練るという教えです。
それに慣れてきたら、随息観といって、数えるのをやめて息とひとつになる訓練をする。
そして、それも出来るようになったら、お師匠さんから公案を与えられる段階に入るそうです。
確かに、自分の息を数えるという体験をしてみると、心が落ち着く事が分かるのではないか、と思います。
呼吸のひとつひとつに意識を集中してみると、それが次第にゆっくりと大きく落ち着いたものになっていく事が分かりますし、精神をリラックスさせるには最適な方法である事が分かります。
これは、禅を全く知らない私のような初心者でもやってみれば分かる事なので、気になる方は試しにやってみる事をおすすめします。
このように、この本には、禅を中心として、心を調える方法、自分を見つめなおす方法などが多数掲載されており、とても役に立つ一冊に仕上がっていると思いました。
一人も百人も同じであるという梵我一如の考え方
アートマン(我)とブラフマン(梵)の考え方は、個人的に勉強になりました。
アートマンとは、個人の本体と考えられているもので、それ自体で存在し、他とは全く無交渉、無関係に独立して自存しているものです。
だから永遠不変の実体だと言えるでしょう。
一方、ブラフマンは、宇宙の本体、根本原理の事であり、常に移り変わって行く世界そのものという事ができます。
ここに、面白い考え方が表れており、個人が永遠不変で、世界が移りゆく物という解釈がなされており、普通逆ではないか、と思う所に、著者の卓越した知性と物事の捉え方の妙味が表れているのではないか、と思いました。
そして、瞑想によって、このアートマンとブラフマンが本質的に同じものである、一人も百人も同じである、つまり梵我一如を悟る事によって輪廻転生の繰り返しから脱出する事ができる、というのが、インド霊性論の考え方です。
これも、言葉では分かっていても、瞑想によって実際に体感するという事になると難しい部分があるのではないか、と思います。
自分というアートマン(我)を乗り越えてブラフマン(梵)と一体になるのは、素人には難しいと思いますし、そこに大きな壁がある事は確かです。
しかし、それだからこそ、やりがいがあるという事もできますし、それを乗り越える方法があるという事だけでも、良い事を学べたような気がしました。
縁起の全体性の中に安らぎがある
「如」という言葉では言えないものについての解説が面白かったです。
「如」とは、概念によってこういうものだと同定できない物を指している。
著者は、如というものは、縁起のネットワークであり、縁起の網の目全体であると解釈しており、これは分かりやすい理解の仕方だ、と思いました。
縁起の網の目が無限にあって、互いに影響を与え合いながら連動している。「私」も含めて、全てがそういう形で存在している。その全体をさして「如」。
著者のこのような考えは、世界を理解するための方法論のひとつとして大変優れたものであり、勉強になる部分も多いと思います。
そして、著者は、そこからさらに考えを発展させていき、全てがつながり合って刻々と変化しているのが縁起ですが、僕らは、それについて文句とか不満があって、何かを足したいとか引きたい、とか、手を加えたい、と思うわけです。
こっちの都合のいいように変えたい。
そこに、縁起の妙味がある、と述べており、ここは個人的に納得のできる部分でした。
縁起を組み替えると苦が生じる。
自分を全体から切り離すと色々な苦が出てくる。
それを踏まえて、坐禅というのは自分が全部につながっている方法を学ぶ事だ、という本書の教えや、自己を調えてみると、全てがつながっているという事がおのずと見えてこざるを得ない、調った自己には縁起の法が顕現する、という教えには、興味が湧きました。
自分を所有物以外で価値付けしてみる
著者のもうひとつの卓越した知恵として、所有についての見解があります。
人間とは、自分で価値の高いと思う物を自分の周りにどんどん集めようとする。
所有の次元で生きるというのは、「私とは私が持っているモノの事である」という路線での生き方であり、そういう形でしか自分を定義できない生き方です。
モノというのは、お金や家、宝石といった物質的なものに限らず、抽象的なものも指していて、知識、社会的地位、肩書、プライド、能力、自信、称賛なども含まれます。
そこで、著者は、そのような世間から出てみる事を述べているのですが、そこには身軽で穏やかな世界が広がっているような気がします。
著者も、肩書とかプライド、経験、恋、お金といったものは、それ自体では別に悪いものではないと説明していますが、それに寄りかかってしまったら、重心をかけ過ぎたら、自由を失ってしまう。
それに引きずり回される。だから、そういうものをいったん落として、それでもう一度自分が自覚的に拾って自由に使える立場になる事が大切だ、と述べています。
このあたりは、少し理解しにくかったのですが、要は、依存し過ぎている時に、手軽にそれを切り離して考えられる自由な発想ができると良い、という事でしょうか。
中々ためになる良い考えだと思いました。
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』の感想
お寺に入った僧だからといって、名誉欲が無くなるわけではない、と著者は言います。
そういう欲を抱えつつ座禅をする。
大事なのは、そういう状態がありつつ、もっと大きな空間の中にそれを置いておく在り方だ、と著者は述べています。
負の感情も、押しとどめずに自身の中に入れてやって、自由にさせて、出ていきたくなったら出ていかせる。それでいいんです。
坐禅とはそういう安全で自由な広い空間を育てていくためのものです、と著者は言うのですが、これなどは参考になる意見でした。
シッダールタも、樹下で座っている時に悪魔に誘惑されました。
彼だって坐禅でいきなり全てが上手く行ったわけではなくて、邪魔する奴が一杯出てきた。
仏伝では、悪魔は一応外からやってくる事になっているけれど、本当はシッダールタの内面を神話的に描いているのではないか、とされています。
シッダールタがすごいのは、その時、悪魔の存在をきちんと認識し、「私はお前がそこにいる事をきちんと認識しているよ」と言って、悪魔の正体を見破っているので、悪魔は手が出せない、という事です。
悪魔の存在を認めてその言い分をちゃんと聞く。すると悪魔は納得して消えていく。抑圧ではなく、シッダールタは悪魔をそのようにして退治します。
そのような考え方は、とても面白いですし、参考になりました。
このように、この本には面白い知識が多数収録されていて、とても役に立ついい本だと思いました。
『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』の評価や口コミ
他の方が『禅の教室-坐禅でつかむ仏教の真髄-』を読んでどう思われているのか、評価や口コミを調べてみました。
藤田氏は東大の心理学の博士課程を退学して曹洞宗の僧侶となり、米国で18年間、禅宗の布教活動に従事したというキャリアを持つ。詩人の伊藤氏は学生時代からユニークな詩作で注目され、最近は経典の現代語訳を試み座禅体験もある。こんな同世代で還暦を迎えた二人の仏教と座禅をめぐる対談が面白くならないはずがない。
伊藤氏の質問は初心に根ざしてつねに本質をつく。藤田氏は仏教の伝統的な教えを踏まえながら、氏の身体を経た体験をもって仏教とは?禅とは?という問いに答えていく。それはまさしく「自分の言葉」であり、新鮮で知的に洗練されている。繰り出される伊藤氏のツッコミ(時にはボケもかまして)が、藤田氏という無尽蔵の泉から言葉を引き出していくようだ。その一語一語が、バシツと胸に響く。
座禅というのは、型から入っていくような窮屈なイメージがあった。しかしこの対談によって座禅がもっと自由なものであることがわかった。むしろ自由でなければ座禅にならないと言うべきか。呼吸法から解放されただけでもこの対談を読んだ価値はある。その代わり、藤田氏が強調するのは、座禅を始めるにあたってのビジョンである。瞑想やマインドフルネスが個々の目的を持つのに対し、座禅は個々の目的を超えてしまう。それが仏教の目指すところであり、ビジョンということになる。まずは仏教の正しい理解が必要であり、それがどういうものであるかは本書で語られる。
禅の考え方を正しくわかりやすく伝えている良い本だと思います。こういう考え方で座禅をすれば良いのだと坐禅することのハードルが下がった様な気がしました。
【いろんな雑念というのが、ぶくぶく、ぶくぶく止めどなく湧き出てくるけど…
(一照) それを止めようとしないで、もっと広くて大きな部屋の中には入れておけばいい。たとえばうるさい子供たちをどうするかというときに、ひとつは「黙らないと叩くわよ」と言ってムチで脅して静かにさせる。あるいは「黙ったらご褒美をあげる」とアメを餌にして言うことを聞かせる。もうひとつは、暴れたいだけ暴れさせ、泣きたいだけ泣かせても全然支障ないぐらい広くて安全な部屋に入れて、しかもほったらかしじゃなくて温かく見守っていく。そのうちに子供たちも気がすんだり疲れたりして自然に鎮まってくる。
(比呂美) そうすると、押し留めずにドアを開けて中には入れてやって、自由にさせて、出ていきたくなったら出ていかせる、それでいいんですか。
(一照) そうそう、そういう言い方でもいいです。心の風通しをよくしてやればいい。来るのも自由、出るのも自由。坐禅をそういう安全で自由な広い空間みたいなものに育てていくんですよ。…】
これは本書の一部分のやりとりだが、 この他にも、 分かりやすく… でも深いお話が満載だった。
坐禅は、人間世界にどっぷりの私たちを、自然界に戻してくれる、とても自然なすがたなのだと思った。
みなさん本書を読んで学んだことが多いみたいですね!
おわりに
輪廻を信じるか、極楽浄土はあるか、仏様を信じるか。どれも難しい問題だと思います。
しかし、輪廻を縁起の法と言われたら、納得できますし、心が落ち着いている時に極楽極楽と言ってしまう事はあります。
どうしようもなく絶望した時に、逆に心が穏やかになり、神様、仏様、と祈りたくなるような時がありますが、それを阿弥陀様を信じる事だと考える事も、あるいは出来るかもしれません。
先ほどの、シッダールタと悪魔の対決のように、悪魔と戦っている時、仏様を味方にする事ができたなら、物事はいい方向に向かうと思いますし、そういった意味で、神様、仏様を信じるというのは、良い事であるのではないか、と思いました。
このような考えは、自身の普段の生活に活かしていく事ができるのではないか、と思いましたし、悪魔に負けない良い心を持っていけるようになりたいと思いました。
次に読みたいと思っている本は『モオツァルト・無常という事』です。
批評家として有名な小林秀雄がモオツァルトと無常を一冊で論じたらどうなるのか。個人的に大きな興味を惹かれたので、読んでみたいと思いました。
この中で、「モオツァルト」という作品は、批評という形式に潜むあらゆる可能性を提示するものだと説明されており、それはどのようなものだろうか、と興味が湧き、そのような意味でも読んでみたいと思いました。